「障がい者」という言葉
小さい頃、「障がい者」という言葉を初めて目にした時、優しい言葉だと思った。
しかし、がん治療の後遺症として複視が残ったまま大学に進学し、日々の生活で障害を感じる場面がある今、途端にその言葉を気持ち悪いものだと思うようになった。
それはきっと「障がい者」という言葉の裏に、特別捻くれた言い方をすれば、あなたは本来社会に害をなす差別されて然るべき人間だけど、私たちは優しいから差別しませんよ、という意思を感じ取ってしまったからだと思う。
「障がい者」という言葉で和らげられるのは世間一般から障害を持つ人に対するイメージだ。
その言葉を使ったところで、当人が実際に生活の中で感じている障害が和らぐ訳ではない。
だから複視によって通学や学生生活に障害を感じ、社会制度的な障害を被るかもしれなかった僕は、「障害」を持っていると自分を定義するし、「障害」を感じていることが自らのアイデンティティでもあると思っている。
僕は個人が個人に対して「障がい者」という言葉を使うことを好まない。
何故ならその人は生活する上で障害を抱えている個人だからだ。
色々な障害を抱えて生活している人達を一括りに「障がい者」と呼ぶべきなのは、障害を持つ人達全体を守る立場にある行政や公共施設の人だけだと思っている。
そもそも「障がい者」という言葉は、公文書などに障害を持つ人について書かなければならない場合に、「害」という字を使わないための代替語であって、決してそれ自体が良い言葉ではない筈だ。
「障がい者」という言葉は、一括りにされて差別されてきた障害を持つ人達が「ただの人間」になるための一通過点であって決してゴールではない筈だ。
敢えて二元論的な言い方をすれば、「障がい者」というのは健常者のための言葉だ。
障害を持たない人達が障害を持つ人を「害」の無い存在として受け入れるための言葉だ。
その意味では「障がい者」という言葉には価値があるかもしれない。
しかし本当に目指すべきなのは障害を持つ人が障害を持ったままで生きられる社会であり、障害を持つ人も持たない人も同様に「ひとりの人間」として生きている社会だということを、今一度考えて欲しい。
なんというか、とても説教臭い記事になってしまったので、最後に今日あった話をして終わろうと思う。
大学のお手洗いに行った時、ふと「優先トイレ」というプレートが目に止まった。
「身障者トイレ」という表記の方がメジャーだなと思いつつ、身障者もそうでない人もそれが必要なら優先して使ってくださいというメッセージを感じて少し嬉しい気分になった。