命あっての言の葉の種

漏斗胸/元不登校/がんサバイバー/軽度視覚障害 普段思うことや自分語りなどの吐き溜め。気ままに更新していきます。

不登校は不幸じゃないが、楽じゃない

最近Twitter上で「#不登校は不幸じゃない」という活動を目にしまして…

ちょいとばかし意見を述べさせていただいたところ、発起人の方や、不登校経験者の方からちらほらと反応をいただきました。

 

そもそも今僕がそういう話題に関心を持っているきっかけというか、自分の中の「学校に行かない子供」にもう一度耳を傾けようと思ったきっかけになった本がこちら。 

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

 

 これは小学生時代を不登校として過ごし、今は社会学助教授をされている木戸理恵さんが、大学院生のころに書かれた本です。

現在普通に大学に通っている身としては、とても共感出来るとともに、自分の中の不登校観が変わりましたね。

 

それは良いとして、本題です。

 

持論として「どんな不利を持ってるからって誰も不幸とは言えない」と思っているので、「不登校は不幸じゃない」という言葉自体は受け入れられるんですよ、僕は。

 

ただ、「あなたは不幸じゃない」という言葉と、「私は不幸じゃない」という言葉は、全く性質の異なるものです。

 

 僕は自分の中学生時代=引きこもり時代を不登校未経験者に語るとき、さも何事も無かったかのように話します。

両親に感じた恨みつらみ、教師に感じた鬱陶しさ、睡眠をコントロール出来ず、夜中に何時間もベッドで独り感じていた心細さ、もう二度と学校なんか行かないと言っておきながら、暫くすれば学校行けるもんなら行ってるよと言う支離滅裂さ、当時如何に周りの人に迷惑を掛けたか、裏切ったかなどということは全て割愛して、「まぁ毎日ネットに入り浸って楽しい日々だったよ」とまとめてしまいます。

それはある意味でそれ以上踏み込むな、理解者ぶるなという線引きでしょう。

その上で、「今は普通に大学生をしている」というエンディングを付け加えれば、あっという間に不登校エリートの物語の完成です。

最後に「僕は不登校してたけど全然不幸じゃないよ」と言ってめでたしめでたしな訳ですが、実際はそう簡単な話でもないですよね。

 

僕としては「あなたは不幸じゃない」と言われても、「そりゃそうだよ」で済む訳なんですが、本当に目を向けるべきなのは、「私は不幸じゃない」なんて口が裂けても言えないっていう人達だからです。

そういう人に対して「あなたは不幸じゃない」なんて言うのは最早言葉の暴力と言っても過言ではない。

 

不登校が特別なものでなく社会一般的なものとなっている今、「不登校を克服した成功者の物語」は世間に溢れています。

それは美談として注目を浴びます。

それは当たり前のことです。

何故なら本当に目を向けられなければならない不登校児は、むしろ自分に注目などしてほしくないからです。というのは自分の過去を振り返ってのことなので、皆が皆そうとは言いませんが。

 

不登校は不幸じゃないが、決して楽じゃない。

正直僕は毎日学校に通えればそれほど楽なことは無いと思っています。

不登校は膨大なエネルギーを使う。

不登校は綺麗事でも美談でもないし、汚くてどろどろしている。

その汚くてどろどろしたものから目を背けず、どれだけ肯定できるか、というところが大事なのかなと思う。

 

最後に付け加えておくと、Twitterでも述べた通り、僕はこの活動をむしろ応援したいと思っています。

何故なら、その言葉で救われる人がいるというのも、また事実だからです。

ただ、それが当事者を傷つける言葉として使われないことを願います。

 

言の葉の種は、その文脈をどのような意図で用いるかという、人の心ですから。