死に近付く瞬間
人間は絶対に死を避けては通れません。
今日は僕が今までに死に近付いたと思った時のことを軽く纏めてみました。
今までで一番「死にたい」と思ったのは多分中学の頃。
当時不登校で将来のことも全く見えず、どうしたら良いのか分からない状態でした。
そこで死にたいと思ったのは多分、どうやって生きていけば良いか分からなかったから。
本当は出来ることなら普通に学校に行って普通に生きていきたい。
でもそれが出来ない。
「生きたい」という欲求が強い分、それが満たされないと「死の影」が濃く映る、といった感じでしょうかね。
当時僕は「生きたい」という気持ちを無意識に押し殺して「死にたい」と思っていたんだろうと思います。
実際に一番死に近付いたのは、水頭症でガチで死にかけて救急車で搬送された時でしょう。
結果としてCTスキャンに反応して腫瘍が縮小したことによって死なずに済みましたが。
夜に自室で今まで類を見ない程の頭痛に襲われ、複視と失語で助けも呼べない状態になった時は本気で死を覚悟しました。
翌朝自宅のソファーで目を覚ました時の、「生きてる…」という感覚を今後忘れることはないでしょう。
「死」に近付いたからこそ、今までの人生で一番「生」を実感した瞬間でした。
そして感覚的に一番死に近付いたのは、多分その後の入院初期の頃だと思います。
水頭症で倒れた後日、某大学病院で脳に腫瘍があると告知され、そのまま緊急入院しました。
その後CTで縮小した腫瘍が元に戻るのを待って、生検という腫瘍の組織の一部を切り取って調べる手術を受けました。
それによって診断が確定し、治療方針も決まったのですが、それまでの間は自分の置かれている状況が分からず、不安定な精神状態にありました。
その頃ふと病室のカーテンを吊るすレーンを見て、漠然と「ここで首を吊ったら死ぬのかな」と思ったことを覚えています。
なんというか、生と死の境が曖昧になっているような感覚がありました。
自分が生きられるのか死ぬのか=生きているのか死んでいるのかが曖昧で分からなくなって、一歩踏み出したら落ちてしまうような死の淵に立っているような気がして、心底恐くなりました。
生と死は表裏一体なのだと思います。
それは特別なものではなくて、普遍的なものとしていつも僕たちの側にあります。
どちらかを強く意識せざるを得ない時、必然的にもう片方も強く意識されるものだと思います。
ただ、そこで一歩を踏み出してしまえるのは、どちらも意識されない、いわば生と死の狭間に居るような状態にある人なんだと思います。
人間死ぬ時は死ぬ、というのは僕が入院生活とがん治療を通して感じたことです。
しかし同時に、その時までは生きなきゃいけない、とも思いました。
「あなた」へと至る46億年の旅とは、小さな原始の微生物から始まり数々の大変動を繰り返してきた地球を舞台とした、気の遠くなるような長い時間をかけた命のリレーであり、そのリレーの果てに「あなた」が生きている。
これは僕が幼少期に取り憑かれたように見入っていたNHKスペシャル『地球大進化』の締めの言葉です。
僕たちは、自分の持つ命に対して責任を果たさなければなりません。
生きられるだけ生きて、どんな形であれ命のバトンを繋げていかなければなりません。
しかし、その責任を放棄せざるを得ない状況に追い込まれる人が少なくありません。
誰しもが「生きていける」社会になることを、強く願います。
長々と語ってしまいました。今日はこの辺で。
ではではーノシ