命あっての言の葉の種

漏斗胸/元不登校/がんサバイバー/軽度視覚障害 普段思うことや自分語りなどの吐き溜め。気ままに更新していきます。

複視矯正用のプリズムシールを試してます

僕がかつて罹患した松果体の胚細胞腫瘍はジャーミノーマというのですが、これ場合によっては視神経の麻痺を起こすんですよね。

それで3年前からずっと軽度の複視を持っています。

 

複視とは、眼球の動きが障害されることで左右の視界にズレが生じてしまう視覚障害です。

5度以上のズレがあると障害者認定を受けられるそうなのですが、僕の場合は3度から5度くらいの軽微なズレです。

なので、見た目では判らないし、頑張れば焦点を合わせることも出来ます。

とはいえ、頑張らないと離れた場所にある文字は読めないし、人は2人に分身してるし、道は二重に見える…といった感じです。中々言葉で説明するのは難しいですね。

 

高校生の頃は多少不便とはいえなんとかなっていたのですが、大学に進学してからは大講義室のスクリーンを見るのが凄い疲れるし、ずっと無理に焦点を合わせていると画面酔いするし…。

というようなことを主治医の先生に相談したところ、大学病院内の眼科に紹介状を書いてくれました。

 

ということで先日眼科に行って改めて検査を受け、お試しで複視矯正の為のプリズムシールをレンタルさせてもらいました。

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右眼のレンズに貼ってあります。

実際シールを買うときには、レンズの形に加工してもらえるみたいです。

 

このシールはプリズムになっていて、複視で眼球がズレる分だけ光を屈折させることで焦点を合わせられるという優れものです。

 

これを貼ったら、本当に世界が変わりました。

まぁ3年間微妙に焦点の合わないぼやけた世界で生きてきたので当然といえば当然ですが。

 

なんか、世界ってこんなに綺麗だったんだと思いましたね。

昔から風景を観るのが好きなのですが、どうしても遠くに焦点を合わせ辛くてショックを受けていたので、ちょっと感動しちゃいましたね。

 

それで何が言いたいのかというと、今まで「頑張ればなんとか出来ていた」ことが、何かしらの手段を用いて「頑張らなくても出来る」ようになるのは凄い価値があるということ。

それは決して甘えではなくて、むしろ誇りたいくらい。

 

お試し用のシールだと左右の視野が狭いので人混みは怖いですが、一先ずはこれで頑張っていこうと思います。

 

ではではーノシ

死に近付く瞬間

人間は絶対に死を避けては通れません。

今日は僕が今までに死に近付いたと思った時のことを軽く纏めてみました。

 

今までで一番「死にたい」と思ったのは多分中学の頃。

当時不登校で将来のことも全く見えず、どうしたら良いのか分からない状態でした。

そこで死にたいと思ったのは多分、どうやって生きていけば良いか分からなかったから。

本当は出来ることなら普通に学校に行って普通に生きていきたい。

でもそれが出来ない。

「生きたい」という欲求が強い分、それが満たされないと「死の影」が濃く映る、といった感じでしょうかね。

当時僕は「生きたい」という気持ちを無意識に押し殺して「死にたい」と思っていたんだろうと思います。

 

実際に一番死に近付いたのは、水頭症でガチで死にかけて救急車で搬送された時でしょう。

結果としてCTスキャンに反応して腫瘍が縮小したことによって死なずに済みましたが。

夜に自室で今まで類を見ない程の頭痛に襲われ、複視と失語で助けも呼べない状態になった時は本気で死を覚悟しました。

翌朝自宅のソファーで目を覚ました時の、「生きてる…」という感覚を今後忘れることはないでしょう。

「死」に近付いたからこそ、今までの人生で一番「生」を実感した瞬間でした。

 

そして感覚的に一番死に近付いたのは、多分その後の入院初期の頃だと思います。

水頭症で倒れた後日、某大学病院で脳に腫瘍があると告知され、そのまま緊急入院しました。

その後CTで縮小した腫瘍が元に戻るのを待って、生検という腫瘍の組織の一部を切り取って調べる手術を受けました。

それによって診断が確定し、治療方針も決まったのですが、それまでの間は自分の置かれている状況が分からず、不安定な精神状態にありました。

その頃ふと病室のカーテンを吊るすレーンを見て、漠然と「ここで首を吊ったら死ぬのかな」と思ったことを覚えています。

なんというか、生と死の境が曖昧になっているような感覚がありました。

自分が生きられるのか死ぬのか=生きているのか死んでいるのかが曖昧で分からなくなって、一歩踏み出したら落ちてしまうような死の淵に立っているような気がして、心底恐くなりました。

 

生と死は表裏一体なのだと思います。

それは特別なものではなくて、普遍的なものとしていつも僕たちの側にあります。

どちらかを強く意識せざるを得ない時、必然的にもう片方も強く意識されるものだと思います。

ただ、そこで一歩を踏み出してしまえるのは、どちらも意識されない、いわば生と死の狭間に居るような状態にある人なんだと思います。

 

人間死ぬ時は死ぬ、というのは僕が入院生活とがん治療を通して感じたことです。

しかし同時に、その時までは生きなきゃいけない、とも思いました。

 

「あなた」へと至る46億年の旅とは、小さな原始の微生物から始まり数々の大変動を繰り返してきた地球を舞台とした、気の遠くなるような長い時間をかけた命のリレーであり、そのリレーの果てに「あなた」が生きている。

これは僕が幼少期に取り憑かれたように見入っていたNHKスペシャル地球大進化』の締めの言葉です。

 

僕たちは、自分の持つ命に対して責任を果たさなければなりません。

生きられるだけ生きて、どんな形であれ命のバトンを繋げていかなければなりません。

しかし、その責任を放棄せざるを得ない状況に追い込まれる人が少なくありません。

 

誰しもが「生きていける」社会になることを、強く願います。

 

長々と語ってしまいました。今日はこの辺で。

ではではーノシ

検査に行ったら長年の疑問が晴れた

先週頭蓋内胚細胞腫瘍の予後の検査のため、某大学病院にてMRI検査を受けてきました。

そして先日その結果を聞きに行きました。

 

結果は再発なし!

ついでに大学生になってから複視に不便を感じていたので、眼科に紹介状を書いてもらいました。

眼科はまた後日、ということになりました。

 

それは良いとして、今日の本題です。

実は4月に大学で受けた健康診断の際に、心電図検査で引っかかってしまっていまして…。

不完全右脚ブロックだそうで、それを診てもらうために心臓内科にも行ってきました。

 

診察室で先生が以前入院していた時のデータを見ながら、「入院中のデータでもこの症状が出たり出なかったりしている」と仰いました。

で、どうやらそれは胸板が薄い人ではよくあることらしく、原因は検査した方の肋間の数え間違いだそうです。

入院時に心エコー図検査を受けていたので、疾患はないと断定できたようです。

 

その後、自分の心臓についても色々聞きました。

どうやら漏斗胸の影響もあって左側に寄っているらしい。

 

そしてどうやら、心臓の発達が悪いらしい。

 

心臓が小さく、大動脈が細いので、運動は出来ない身体だと言われました。

 

自分としては、凄い納得。

長年の疑問が晴れました。

 

小学校高学年くらいの頃から体育の授業、特に体力を使うようなものが全然出来なくて…中学のマラソンの授業は地獄でした。すぐ行かなくなったけど。

高校では寮に入っていて、毎朝マラソンをしていたのですが、引きこもりで体力が落ちていたこともあり、毎日終わった後は心臓の動悸が収まらず、死ぬかと思ってました。

 

元々ガリガリなのもありますが、どれだけ経っても一向に体力が周りに追いつかないし、運動した後は動悸が激しくなって収まらない。

 

ずっと不自然に感じていて、漏斗胸のせいかなーと思っていたのですが、まさか心臓とは思いませんでしたね。

確かにバレないドーピングとして自己輸血が行われていたこともあるくらいだから、体内に送れる血液が少なければ運動に不利だろうと。

 

昔からずっともやもやしていたものが解決したので、まぁスッキリしたかなと思います。

 

ではではーノシ

不登校は不幸じゃないが、楽じゃない

最近Twitter上で「#不登校は不幸じゃない」という活動を目にしまして…

ちょいとばかし意見を述べさせていただいたところ、発起人の方や、不登校経験者の方からちらほらと反応をいただきました。

 

そもそも今僕がそういう話題に関心を持っているきっかけというか、自分の中の「学校に行かない子供」にもう一度耳を傾けようと思ったきっかけになった本がこちら。 

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

 

 これは小学生時代を不登校として過ごし、今は社会学助教授をされている木戸理恵さんが、大学院生のころに書かれた本です。

現在普通に大学に通っている身としては、とても共感出来るとともに、自分の中の不登校観が変わりましたね。

 

それは良いとして、本題です。

 

持論として「どんな不利を持ってるからって誰も不幸とは言えない」と思っているので、「不登校は不幸じゃない」という言葉自体は受け入れられるんですよ、僕は。

 

ただ、「あなたは不幸じゃない」という言葉と、「私は不幸じゃない」という言葉は、全く性質の異なるものです。

 

 僕は自分の中学生時代=引きこもり時代を不登校未経験者に語るとき、さも何事も無かったかのように話します。

両親に感じた恨みつらみ、教師に感じた鬱陶しさ、睡眠をコントロール出来ず、夜中に何時間もベッドで独り感じていた心細さ、もう二度と学校なんか行かないと言っておきながら、暫くすれば学校行けるもんなら行ってるよと言う支離滅裂さ、当時如何に周りの人に迷惑を掛けたか、裏切ったかなどということは全て割愛して、「まぁ毎日ネットに入り浸って楽しい日々だったよ」とまとめてしまいます。

それはある意味でそれ以上踏み込むな、理解者ぶるなという線引きでしょう。

その上で、「今は普通に大学生をしている」というエンディングを付け加えれば、あっという間に不登校エリートの物語の完成です。

最後に「僕は不登校してたけど全然不幸じゃないよ」と言ってめでたしめでたしな訳ですが、実際はそう簡単な話でもないですよね。

 

僕としては「あなたは不幸じゃない」と言われても、「そりゃそうだよ」で済む訳なんですが、本当に目を向けるべきなのは、「私は不幸じゃない」なんて口が裂けても言えないっていう人達だからです。

そういう人に対して「あなたは不幸じゃない」なんて言うのは最早言葉の暴力と言っても過言ではない。

 

不登校が特別なものでなく社会一般的なものとなっている今、「不登校を克服した成功者の物語」は世間に溢れています。

それは美談として注目を浴びます。

それは当たり前のことです。

何故なら本当に目を向けられなければならない不登校児は、むしろ自分に注目などしてほしくないからです。というのは自分の過去を振り返ってのことなので、皆が皆そうとは言いませんが。

 

不登校は不幸じゃないが、決して楽じゃない。

正直僕は毎日学校に通えればそれほど楽なことは無いと思っています。

不登校は膨大なエネルギーを使う。

不登校は綺麗事でも美談でもないし、汚くてどろどろしている。

その汚くてどろどろしたものから目を背けず、どれだけ肯定できるか、というところが大事なのかなと思う。

 

最後に付け加えておくと、Twitterでも述べた通り、僕はこの活動をむしろ応援したいと思っています。

何故なら、その言葉で救われる人がいるというのも、また事実だからです。

ただ、それが当事者を傷つける言葉として使われないことを願います。

 

言の葉の種は、その文脈をどのような意図で用いるかという、人の心ですから。

「障がい者」という言葉

小さい頃、「障がい者」という言葉を初めて目にした時、優しい言葉だと思った。

 

しかし、がん治療の後遺症として複視が残ったまま大学に進学し、日々の生活で障害を感じる場面がある今、途端にその言葉を気持ち悪いものだと思うようになった。

 

それはきっと「障がい者」という言葉の裏に、特別捻くれた言い方をすれば、あなたは本来社会に害をなす差別されて然るべき人間だけど、私たちは優しいから差別しませんよ、という意思を感じ取ってしまったからだと思う。

 

障がい者」という言葉で和らげられるのは世間一般から障害を持つ人に対するイメージだ。

その言葉を使ったところで、当人が実際に生活の中で感じている障害が和らぐ訳ではない。

 

だから複視によって通学や学生生活に障害を感じ、社会制度的な障害を被るかもしれなかった僕は、「障害」を持っていると自分を定義するし、「障害」を感じていることが自らのアイデンティティでもあると思っている。

 

僕は個人が個人に対して「障がい者」という言葉を使うことを好まない。

何故ならその人は生活する上で障害を抱えている個人だからだ。

色々な障害を抱えて生活している人達を一括りに「障がい者」と呼ぶべきなのは、障害を持つ人達全体を守る立場にある行政や公共施設の人だけだと思っている。

 

そもそも「障がい者」という言葉は、公文書などに障害を持つ人について書かなければならない場合に、「害」という字を使わないための代替語であって、決してそれ自体が良い言葉ではない筈だ。

 

障がい者」という言葉は、一括りにされて差別されてきた障害を持つ人達が「ただの人間」になるための一通過点であって決してゴールではない筈だ。

 

敢えて二元論的な言い方をすれば、「障がい者」というのは健常者のための言葉だ。

障害を持たない人達が障害を持つ人を「害」の無い存在として受け入れるための言葉だ。

その意味では「障がい者」という言葉には価値があるかもしれない。

 

しかし本当に目指すべきなのは障害を持つ人が障害を持ったままで生きられる社会であり、障害を持つ人も持たない人も同様に「ひとりの人間」として生きている社会だということを、今一度考えて欲しい。

 

なんというか、とても説教臭い記事になってしまったので、最後に今日あった話をして終わろうと思う。

大学のお手洗いに行った時、ふと「優先トイレ」というプレートが目に止まった。

「身障者トイレ」という表記の方がメジャーだなと思いつつ、身障者もそうでない人もそれが必要なら優先して使ってくださいというメッセージを感じて少し嬉しい気分になった。